佃島は元々、隅田川の河口に自然に出来た寄洲でした。徳川家康は幕府を江戸に置くにあたり、本能寺の変で世話に
なった摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西成区)の漁民約30人を江戸に呼びました。その後、1644年には、隅田川の
河口の三角州を埋め立て島を作り、漁民たちはそこに住むようになったと言われていますが色々な説があるようです。
江戸幕府は佃島の漁民達に江戸近海で優先的に漁が出来る様な特権を与えて保護したと言われています。
そして漁獲された物は将軍、御三家などにも献上されました。築島完成後、佃村から移り住んだ漁夫の本国の名を取って
佃島と名付けたのです。佃の渡しは、佃島が出来た次の年の正保2年(1645年)に始まり1964年まで続いていました。
現在は佃大橋を渡り簡単に対岸に渡れますが昔は唯一の交通手段でした。今は隅田川沿いに佃島渡船跡の碑があります。
佃島には住吉神社があります。神社は正保3年(1646年)、故郷摂州(大阪市住吉区)の氏神・住吉神社を分社して佃島・
住吉神社の社殿を建てて遷座しました。ここ佃島は震災、戦災を辛うじて免れた古い下町の面影と真正面に立ちはだかる
高層マンション群との迫力あるコントラストは絵になるアンバランスです。この辺り一帯には醤油とみりんの食欲をそそる甘い
香りが漂っています。香りの元は佃煮です。小魚などの海産物を醤油で煮た佃煮は元々漁師たちが船で食事をする時の
保存食として考案された物です。天保八年創業の老舗佃煮屋があります。老舗の佃煮屋に立ち寄り昔懐かしい「アミの佃煮」
を買い、子供の頃の懐かしい弁当を思い出しました。路地裏で気になる看板がありました。半ば体をすぼめてかなり狭い路地
に入っていくとその先に地蔵堂がありました。佃天台子育地蔵の地蔵堂で小さな狭い部屋ですが割りに現代風なつくりでした。
部屋の隅には太いイチョウの木があり部屋の天井を抜け外にでていました。とても奇妙な感じでした。こんな所にお地蔵さんが
いるとは思っても見なかったです。隅田川から住吉水門を経て船どまりの堀(佃堀)がありその堀にかかる赤い佃小橋があり
周辺には桜も多く植えられています。佃堀の河岸地には波除稲荷神社があり、その鳥居脇に3個の力石が置かれています。
長径50cm前後の楕円形の石でどれにも『さし石』の刻銘があり材質は安山岩です。佃島では漁業に従事する若い衆などが
力競べとして石を持ち上げる事が盛んに行われました。力石を『さし石』と呼び持ち上げる事を「さす」とか「あげる」と呼んで、
関東大震災の頃までその習慣は続いていました。石の一つには「佃大市」「佃辰」「佃清」「吉松」など佃ゆかりの力持ちの名も
刻まれ力競べの習慣を今日に伝えています。
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佃島散歩

佃島由来



変わり行く
佃島


佃堀




佃小橋



のんびりと!





住吉神社の
陶製扁額

水盤舎



水盤舎
大阪・佃の字

地蔵尊入口



地蔵堂

狭い路地に
地蔵尊



地蔵尊の看板







渡しの碑


佃大橋と
隅田川


老舗の佃煮屋


時代を感じる
のれん


さし石



さし石



浮き輪を
良く見かけました

住吉水門

家の前を花で
飾っている
家が多い


まだ、まだ
高層マンションが
建設中